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研究ノート「都市のインテリア」  
 
     
   
  005 一緒に座る Public Sitting           「人間家族展」より
 
   公共空間には、不特定の人が利用できるようしつらえられた<座れる場所>がある。屋外ではバス停・電停のベンチなどがあり、短時間座る。屋内では、図書館の閲覧室、病院や役所、銀行などの待合室がおなじみ、ショッピングセンターのモールにも、腰を休めジュースを飲むためのベンチがある。
 どのベンチも物理的には座れるようにしつらえられてあるが、先に人が居ると座りにくかったり、一人では座りにくかったり、逆にグループでは座りにくかったりと、微妙な抵抗を感じるケースがよくある。どのようなしつらえが良いのか、座りにくさの要因は何か。相客のせいかもしれないが、しつらえにも問題はないか。以下、ケースを挙げて考えてみたい。

 
  ケース1. 定食屋チェーンのOT屋の大テーブル

 
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 OT屋の大テーブルには、いつ訪れても入れ替わりお客が座り、違和感なくなく食事をしている様子が見てとれる。決められた椅子の配置を守って、空いている席に座る。テーブルとイスの関係から、他人同士が必然的に隣同士になったり、真正面で向き合ったりする。居方*に制約があるにもかかわらず、食事どきには空席は少ない。他の席に比べて座席の占有率が劣るという印象は、筆者が利用した限りではない。公共空間のよりよき典型<共有される居場所>になっている。(003「一緒に食べる」参照)

  *居方 いかた
 「飲み方」「食べ方」には考えられる限りのうんちくを傾けてきた我々も、たまたま居合わせた場所での「居方」には案外無頓着というか、表す言葉すらない-との反省から近畿大学建築学部教授・鈴木毅氏が造語し、ライフワークにされている学術用語。居間、居酒屋などの「居」には普段-の意がある。「居方」の命名にも、特別に工夫された機能空間ではない、さり気ない都市空間への思いが込められている。

  ケース2.広島みなと公園の東屋
 
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 広島市内の公園にはよくある東屋、正方形のテーブルをコの字に囲むベンチが備わっている。東屋のすぐ脇では3人の子育てママのグループが、ビニールシートの上で食事をしていた。
さて、この人たちはなぜベンチに座らないのだろうか。自分たちが座ったら他の人が座りにくくなると遠慮しているのだろうか。もしかしたら、他の人が座ったら今度は自分たちが座りにくくなると深読みしているのではないだろうか。このベンチレイアウトは、親密さを演出しているがゆえに、誰かが利用していたら近寄れない(一緒に利用-共有-できない)<専有される場所>になっている。東屋のデザインも、案外むつかしいものである。
 人が環境から受ける影響を情報理論の視点から研究する学術分野に認知科学(cognitive science)がある。ジェームス・ギブソンは、情報は環境の中に実在するとし(だから客観的な研究対象になり得る)、ギブソンはこの種の情報に対して「与え得る、余裕がある」という意味の英語affordを引用してaffordanceアフォーダンス(環境情報か)なる造語を与えた(ウィキペディア)。アフォーダンスが意味する情報は、目の前の危険や食べ物の情報よりも高次の、より習慣化された情報を指す(アフォーダンスとは、環境が動物に提供する価値であり、動物にとっての環境の性質である[アフォーダンス・新しい認知の理論 佐々木正人著 岩波書店(1994) ])。
 ここに取り上げた二つの<座れる場所>を利用しようとする人は、共有される(できる)アフォーダンス・専有される(できる)アフォーダンスを、環境の中に知覚している。そして公共空間において座ることをしつらえられた居場所では、<そもそも座れるかどうか><自分が今座れるかどうか>という情報を環境から知覚する。生態学的認識論によれば、前者の価値は「構造不変項」、後者の価値は「変形不変項」になる。この2つの居場所では、椅子・ベンチが設けられていて、<そもそも座れる>という座る場所であることを恒常的な価値として知覚できる。また、<自分が今座れるかどうか>というアフォーダンスの知覚は、人によって異なる。佐々木正人によると、この情報は知覚者の主観が構成するものではなく、環境の中に実在する情報であるという。 
 
   飲食店の4人掛テーブルでの相席は、どんぶり・麺類を扱うファーストフード店で男性客が大部分を占めるような店では、しばしば見受けられるし、筆者も経験がある。ただし、この場合は、急いでいるとき、座る席が他にないとき必要に迫られて相席をしている。座るとき、先に座っている人に店員が許可をもらったり、自分が声を掛けて許可をもらったりしている。許可をもらう人許可をする人の双方が「受容し、譲り合っている」のである。
 この種の環境情報・アフォーダンスによって運用される<座れる場所>が、市街地のある休憩場所に見られる。自走式立体駐車場ビルの1階に設けられて、外部へ開いた半屋外の休憩所である。

  ケース3.グランドパーキング21の休憩所
 
 ここには、自動販売機、ゴミ箱、テーブル、ベンチ、イス、灰皿が備えてある。前面道路は人通りも多く、昼どきには利用者が途切れることはない。喫煙はもとより缶コーヒーを飲み、スマートフォンを操作し、弁当を食べる人もいる。お互いの視線を避けながら、座っていたり立っていたり、お互い譲り合い我慢し合いながら場所を共有しているように見える。

 
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 座っている人は、視線を合わせないように向きを意図的にずらしている。帽子の男性は、弁当をその場で食べ終わり通りを眺めているが、そのほかの3人はスマートフォンを個々に操作している。正面に石のベンチが空いているにもかかわらず、立っている女性は他の4人より目線が高く保ち、いつでもポジションを変えられる状態を作りながらタバコを吸っている。

  ケース4.更に、グランドビル大手町の休憩所 

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 中央に座っている水色の服の男性は、他の人が来る前からその場所に座っていた。手前に立っている3人グループは、石のベンチがないスペースに集まっている。茶色のジャケットの男性は、3人と向き合わないように姿勢を傾け目線をそらしている。さらに一番奥の男性は石のベンチが空いているにもかかわらず、立って壁に向かってスマートフォンを操作している。

 
   大テーブルを囲んで食事をする空間、公園内の東屋、半屋外の休憩所を紹介してきたが、そこでの居方には違いがみられた。OT屋では、居方に制約があるものの、空いている席に思い思いに座っている(先に座っている人に声を掛けないでも向かい合わせでも隣同士でも座れる状況がある)。【居心地のいい共有】
 公園内の東屋では、他人同士一緒に座れない。【専有】 
半屋外の休憩所では、思い思いに自分の居方ができるので先に居る人に声を掛けなくても済んでいるが、明らかに先に居る人後から来た人を意識し、自分の居方を決めながら座っている。【受容し譲り合う共有】
 OT屋では、相席が嫌なら4人掛けテーブルや2人掛けテーブルが空くのを待つことができる。にもかかわらずいつも大テーブル席は埋まる。<003「一緒に食べる」>の中で言及された人と人の<ふれあい>(involvement)の感覚・かかわりわり合いがそこにはあると思わずにはいられない。
 このことを検証するために、更に類似の居場所を訪れてリアルな情報を現場で探索し、利用者の知覚しているアフォーダンスを利用者が描くスケッチによって明らかにできないか、と考えている。

P.S. 文中、ごく自然に居場所、居方、居心地というふだん言葉を多用してしまった。研究ノート「都市のインテリア」が目指すものは、公共空間におけるこれら環境の質に係る<アフォーダンス>の解明と開発ではないだろうか。

  C.アレクザンダー「パタン・ランゲージ」 からのコメント 
69 公共戸外室奥 Public Outdoor Room
 ・・・このような活動の偶発性と多様性に対応するには、<明確であっても明確過ぎない>といった微妙な空間が必要になる-と述べてアレクザンダーは、計算高い都市空間における屋根と柱からなるあずまや(東屋、四阿)風小スペースの必要性を説く。そして本文は、<このような活動>のタイプと誘発可能性を述べているわけである。置かれたイスのタイプによってアフォーダンスが左右される-と、デザイナーは信じている。
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  日本インテリア学会中国四国支部